↑ さて、時は2年を経過して1987年10月南国九州の築城基地を初めて訪れてみた。10月 第6飛行隊のF-1に交じり、第8飛行隊のF-1が移動訓練に来ていた。築城基地では三沢ではできない304空(第304飛行隊)のF-4EJとの異機種戦闘(DACT)が出来るのである。
8rd Squadron
↑ 三沢基地から築城基地までは、直線で1200㎞。3本タンクでの最大フェリー距離が2600㎞あるF-1にとっては、増装タンク2本だけでも無理なく行ける位置にある。この時代は、まだまだ中国海軍の力は弱く、沿岸防備能力しかなかったので、対艦攻撃の仮想敵国はソ連(現ロシア)しか存在しなかった。また北朝鮮も仮想敵国ではあったが、日本に直接脅威を与える存在ではなく、九州周辺地域は緊張感は高くなかった。
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Pege-4
第8飛行隊は、朝鮮戦争後再軍備が許された日本に於いて、最初に整備されたF-86F戦闘機の8番目の飛行隊である。因みに、F-86の飛行隊は、第10飛行隊まで作られ、第11飛行隊がブルーインパルスだった。(F-86Fは、430機余りが運用されたので予備機が多かった事を考慮しても、当時の各飛行隊で運用された機数はかなりの数と想像できる。)第2世代のF-104Jからは、3ケタ番号の第201飛行隊が使われたので、一桁番号で戦闘機部隊なのは、F-1の3/6/8Sqだけになっていた。第8飛行隊は、松島基地で創設されて、その後航空自衛隊の規模拡張に伴い、多くの基地を転々として1978年に小牧基地から三沢基地に移動している。従って、私が1978年に初めて三沢基地で3SqのF-1を撮影した際は、未だF-86Fの飛行隊だった訳で、この時は10機編隊の脚下げビックアロー体形で上空通過を披露していた。F-1の2番目の飛行隊として再スタートを切った当飛行隊は、極めて優秀であり、1983年から1987年の5年間に於いて総合戦技競技会で、4回も部門優勝に輝いているのだ。(2024年2月 記)
↑ この日は、海側(周防灘)に向かって離陸して行くR/W 07であり、山側から着陸して堤防近くの誘導路を回ってエプロンに戻って行く。左側面が綺麗の撮れるのである。
↑ 1984年秋の松島基地航空祭に展示されたF-1/250号機。この年は、1982年浜松基地での事故から復帰したT-2ブルーインパルスが会場の主役であったので、F-1はひっそりと展示されていたが、1984年までには69機のF-1が納入済で、3個飛行隊共に円熟期に入っていた時期である。インテークカバーは、何故か阪神タイガースのマークが入っている。250番機の整備員が阪神ファンなのかもしれないが、奇しくも1985年に阪神はセリーグ優勝を飾り 阪神優勝祝賀会には250人の阪神ファン参加者が招待されている。関係ないでしょうけど・・・
↑ 1985年の曇天の中開催された三沢航空祭で、16機編隊を組み上げる為、第3飛行隊と共に離陸する第8飛行隊の面々。雨雲でうす暗くなった空の下、クリスマスツリーと呼ばれたF-1のバディを飾る編隊灯がキラキラと光るのである。
↑ 1986年11月の入間航空祭に展示されたF-1/230号機 インテークカバーにもオリジナルの武者兜が描かれていた。F-1戦闘機は、運用期間中に5機が事故で墜落し失われているが、この230号機も1998年に僚機(253号機)と接触して墜落している。パイロットが使用するヘルメットは既に白から低視認性の良いダークグレーに切り替わっている。